もしも余命が3カ月と宣告されたら、自分に対して周りに対して私は何をすればいいだろう。24時間テレビ(愛は地球を救う)のドラマスペシャル「今日の日はさようなら」を見ながら、27歳にして癌で亡くなった主人公の言葉に心を揺さぶられた。
「死ぬことは、終わることじゃない」
最期の時を自宅で迎えようと決めた彼は緩和ケアの合間に、入院していた病院の女性カウンセラーを訪ねて死後の申し出をする。彼女は7年前に恋人を自殺で失って、いまだに最後に届いた携帯メールを消せずにいるからだ。
「俺があっちに行ったら伝えようか、彼に。何か伝えたいこと、あるんじゃない?」
しかし彼女は申し出を断り、自分を忘れて死んでいった恋人を「ずるいよ」と怒る。自分は一生忘れることなんて出来ないのに・・と。
この場面は強烈すぎて、封印していた後悔が蘇ってきた。私の恋人も癌を宣告されてから半年で亡くなったけれど、実を言うと、迫った死を覚悟していた彼に約束して欲しいことがあったのである。
「あっちの世界に行っても私が見えるのなら、何かのサインを送ってくれる?」と。
しかしこの願いを思いついたのは彼が亡くなったあと。危篤になっても奇跡の生還を信じ切っていたから、二度と言葉が交わせなくなる断絶が訪れるなんて思うはずがない。
もしも元気なころから、「死ぬことは、終わることじゃない」の共通認識が私たちの間にあったなら、あっちの世界とこっちの世界で通信するサインを決めることが出来たかも。壁を2回叩くとか肩をトントンするとか、冗談でいいから「ここにいるよ」の合図を決めておけば良かったと大いに後悔している。自分の将来が不安でたまらないときに「大丈夫、明日はうまく行くよ」のサインを貰えたら、頑張る力が百万倍湧いてくるのにね。
宇宙の中の銀河系、銀河系の中の地球。星が生きている悠久の時間に比べたら人間の一生なんてカウントしようもないほどに短い。しかし生と死は人類における永遠の謎であり、コントロールする術もない。死後の世界があるのか輪廻転生があるのか、どんなに科学が発達しても解明されないのは何かの理由があるからなんだろう。いや、理由などなく見えていないだけかもしれない。
一世一代の課題として私がこの世を去ったあと、大好きな人にサインを送れるかどうか。映画「 ゴースト/ニューヨークの幻」みたいなアクションは起こせないとしても、微風ぐらいは吹かせられるかな。蒸し暑くて眠れない夏の夜、開いた窓から汗ばんだ頬に届く涼風はもしかして、今も空から私を見守ってくれる彼の仕業かなあと思うからである。
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