書き下ろし短篇『一個残しと以心伝心』

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僕の仕事カバンの奥ポケットには、一通の擦り切れた封筒が入ったままである。中身は離婚届。それは5年前の7月7日、妻であった君から合意のサインを貰った緑の用紙だ。役所に提出しようと思いながら、何度も冬が来て春が来て梅雨が来て、そして5回目の七夕になってしまった。形式上は夫婦であることについて、向こうから未だ何の問いも来ていない。

 

「飲まないか? 今夜、あいてる?」
営業先から直帰になった夕方、まっすぐ帰るのは勿体ないなと、携帯から同僚に電話した。
返ってきた「えっ?」は聞き覚えがある女性の声。絶対に押し間違えちゃいけないと配慮してきた携帯のアドレス帳は、君と同僚とが隣りあわせだ。やっちまったな、ついに。

「いいわよ。どこで?」
予期せぬ君の返事が耳に飛び込み、僕の頭は混乱する。同僚といつも飲んでいる居酒屋の名前が口から出ると、「そこにしましょう。30分後でいい?」と聞かれ、断る理由が見つからないまま「うん」と答えた。

 

新橋の烏森口から続く飲み屋街は大賑わい。身体を斜めにしないと座れないカウンター席で、焼き鳥の煙にまみれながら、飲み干したホッピーの「なか」を頼んだ。
「元気そうだね」「あなたもね」の会話のあと、話が続かずにお代わりだけが進む。

居酒屋

頼んでおいたシシトウ焼の串が1本、僕の皿にホイと置かれた。お先にの合図をして、1個をパクリと噛む。ン?ン?・・・・辛ーっ!!! 大当たりじゃないか!
顔が真っ赤になってる僕をクスッと笑った君は、「すみません、お水下さい」と店員を呼んだ。グラスを一気に飲み干す様子に、笑いが止まらず肩を震わせて、もう1杯水を頼む。

 

僕は意地になった。「あと3個残ってるぞ。次は君の番だ」
君がパクッと口に入れたのはハズレ。次の僕のもハズレ。残った1個の譲り合いでまた遠慮の沈黙が生まれる。
もしこれが前もって激辛だと分かっていたら、どっちが食べていたかな。心を読まれないよう、焦って飲むピッチが速くなる僕。溜息をついて天井を眺めている君。「僕たち、良いことも悪いことも、お互いに気を使いすぎて失敗したんだよね」と心の中で呟いていた。

 

仕事が超多忙な2人が電撃結婚して、すれ違いばかりの毎日で、たまに会えば喧嘩か無言かで、ある日テーブルに広げた離婚届に判を押して、それぞれが借りた部屋へと引っ越した。5年の歳月が経ったのに、優柔不断な僕は未だに離婚届を役所に出していない。変な理屈だけど、出さないことが明日の希望に繋がるお守りになっていたんだ。

 

「あのさー」と言いかけた時、君の携帯が鳴った。戸口から出て何か一生懸命に話している。ひどくエキサイトしてる様子からして、彼氏なのかもしれないな。店員を呼んで勘定を済ませた僕は、電話中の君に「じゃね」と格好よく手を振って駅に歩いた。後ろは振り向かなかったけれど、ひょっとしたら追いかけてくるかもと小さな期待を抱きながら。

 

それから何軒かハシゴして、スーツのままベッドに転がった時に携帯が鳴った。
「今夜はごちそうさまでした」と、記憶の彼方に追いやってしまった声がする。
「お願いがあるの。あの用紙、出してきてくれる?」
離婚届のことを言っていると分かり、僕はいきなりシラフに戻った。ついに現実が来たんだ。でも・・
「ついでに茶色の用紙を貰ってきてくれる?」
「えっ!?」
「また振り出しに戻れないかな、私たち」

 

居酒屋の外に出ての電話は、仕事の内容だったらしい。会社に戻って用を済ませ、一人住まいの部屋の電気をつけたとたん、涙が止まらなくなったという。意地を張り通して5年間も溜めこんできた涙だ。
「どうしてるかなって、いつも思っていたわ」
「うん」
「今日は会えて楽しかった」
「うん」
僕が言いたいことを全部言ってくれる君に、本当は以心伝心の2人だったと気付いた。織姫と彦星のあいだにある天の川は深そうに見えたけど、いつでも渡れるせせらぎだったんだ。

 

これからは未記入の婚姻届を仕事カバンのポケットに入れて、僕たちは時々デートをするだろう。一度は家族になった間柄だけど、壊してからまた家族になるハードルは高い。サインして判を押すかは来年の七夕に決めたいと、記念日作りの好きな君は言う。

今夜のデートは中華料理。皿に1個残った焼売を、君は「いただき~!」と口に入れた。

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7月7日にラブストーリーを書くのはこれで5回目。今回の織姫と彦星は別居中の夫婦です。
下記の4つはこれまでの七夕短編。

書き下ろし短篇『名画座最後の夜』

書き下ろし短篇『七夕デート

織姫と彦星が会えない理由

遠距離恋愛と天の川

コメント

  1. 的は逗子の素浪人 より:

    僕のビジネスバックの中にはもう何年もの間、白紙の緑の用紙が入っている。たぶん「大人の事情」で今後もそのまま…。
    いつ本当の茶色に会えるのか。

  2. 亀吉 より:

    う~ん、憎いねぇ…。読ませるねぇ…。

    さすがです! ちょっと我が身を振り返ってしまいました。

  3. yuris22 より:

    的は逗子の素浪人様

    白紙でも、持っているということに意味がありそうですね。
    私は茶色&緑のワンセットを経験しましたが、たぶん茶色はもうないでしょう。相手が猫でもOKなら、今すぐにでも与六に肉球判を押させて提出するんですけどね。

  4. yuris22 より:

    亀吉様

    むむ、カウンターの向こう側にはそんな秘めたる過去があったんですね。
    今度こっそり教えてください。次の短編小説のネタにします。

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