野に咲く花のこころ

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二十四節気の「小寒」を過ぎて朝晩の冷え込みが増したものの、去年に比べたら昼間の日差しは春のように柔らかい。ベランダのノースポールが小さな花を咲かせ始め、今日は根元に肥料を与えた。

northpole
枯れた葉を摘む際に手折ってしまった一輪。捨てるには忍びないのでグラスに生けて眺めていると、愛媛県にあった祖母の住まいを思い出す。ハルジオンだったかヒメジョオンだったか、野の花を竹の一輪挿しに生けて、トイレの窓際に飾っていた。一人で生計を立てていた呉服仕立ての手を休めては、花を摘みに行くのを楽しみにしていた姿が懐かしい。もう思い出の中でしか行けない家だけれど、列車に乗って四国に渡りたいと無性に旅ごころが湧いてくるのだ。

そして思いがけず巡り合ったネットの記事。「恕(如)」について調べているうちに、浄土真宗の僧侶が書かれた「自他一如の心」という法話を見つけたのだが、なんとこのお寺(南岳山光明寺)がある住所は愛媛県西条市大町。祖母の借家のすぐ近くだったばかりか、西条市は私の出生地でもある。

孟子の説いた「仁義礼智(惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、辞譲の心は礼の端なり、是非の心は智の端なり)」を座右の銘としたくて、そこまで全く到らない我が身が恥ずかしくて、悶々とする毎日。性善説を信じるなら、他人に対して怒ってはならないと心に言い聞かせつつ、批判的な感情を抑えきれないのが歯がゆい。

困った人を見かけたら駆け寄るのが普通だと思ってしまうのは、自分の驕ったところ。
見て見ぬふりで「知らない、関係ない」と言う人を保身と思ってしまうのは、自分の偽善たるところ。
自分が行いたい事に、他人との比較を持ち込んではいけないのである。

真っ白なノースポールの花。楚々としたハルジオン、ヒメジョオン。真紅の薔薇みたいにに目立たなくても、咲いていることに気付いてくれる誰かがいるなら、それだけで充分に幸せなのだと思う。

himejyoon

追記:1月11日
日ごろお世話になっている先輩から「今、何してる?」と電話があり、昨晩は逗子で魚料理をご馳走になった。自分が目をかけた後輩を成功に導けるよう、的確なアドバイスを下さるだけでなく、根回しも欠かさない方だ。礼節を尽くすべき相手に陰で頭を下げて回っていることを知り、フットワークの軽さと責任感の強さに驚いた。

そしてポケットから「今日は嬉しいことがあってね」と見せてくれたのは、大吉のおみくじ。その「第〇〇番」の数字は、生まれながらのラッキーナンバーだという。私も数年前に「一番の大吉」を引いた話をして、万物を制御する力の存在について盛り上がった。誰にも言えず墓場まで持っていこうと思っていた悩みを聞いて戴き、心の重しが取れたことに感謝!

コメント

  1. 的は逗子の素浪人 より:

    「他人との比較」は、依存していると聞きました。
    あいつに比べて、おれは・・・。と思っているのは、「あいつ」がいないと存在しないその物差しの中でしか、自分を保てないのではないでしょうか。その様な物差しでなく、「自分が手を差し伸べたい」と思う心に素直にと思いますね。
    でもでも・・・、俗物でしかない自分がいますね。

  2. yuris22 より:

    的は逗子の素浪人様

    沢山のジャガイモを効率的に洗うコツは、一個一個を手に取って洗うのでなく、桶の中でゴロゴロ擦り合わせることだといいます。真っ先に角が取れて綺麗になるのは、たぶんいちばん痛い思いをしたジャガイモなのでしょう。でもその苦しみを相手に分かって貰えないのはとても辛い・・・。
    チェスの駒を動かすように、神様はジャガイモたちでいったい何の料理を作ろうとしているのか、自分が洗い桶の中にいるうちは見えないのかもしれませんね。

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