デジタル化社会で失うもの

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私の右手の中指にはペンだこがある。原稿を今のようにワープロソフトではなく、原稿用紙に手書きしていた頃の名残りだ。さらさらと書ける水性サインペンを使っていたが、30分の放送台本でも下書きと清書をすれば、指がジーンとしびれた。
生放送の時にはパーソナリティーの横に座って、いかにスピーディーに読みやすく書くかが勝負。パソコンに慣れてしまってからは、二度と戻れない職人芸である。今や封筒に住所氏名を書くときでさえ、なんて読みにくくて汚い字だろうと嘆くほどの退化ぶりなのだから。

政府の追加経済対策。文部科学省は約4,000億円を投じて、「学校ICT(情報通信技術)化」を推進することを決めた。電子黒板を全国の公立小中学校に1台ずつ配備する、教育現場におけるテレビを50型以上にする、コンピューターの台数を増やすなどの、一校につき1,100万円の環境整備を支援するという。もちろんその背景にあるのは、電気機器企業やIT企業などの活性化対策であろう。

鉄は熱いうちに打てで、子供の頃からパソコンは使えたほうが良い。重いノートを何冊も取り替えずに済んで節約にもなるだろう。先生だって教科書からいちいち絵や数式を書き写す手間が省けるだろう。しかし機械が頭脳となったデジタル化は諸刃の剣で、人間にしか出来ないこと、文化を退化させていく。

鉛筆やチョークで書き写すという作業は、面倒であるほど思考がプラスされる。日本語であれば文法や漢字の書き順も頭に再構築される。自分の手描き文字に触れていることは、心との対話にもなる。

昨日テレビで、パナソニックが幕張メッセに展示している電子黒板を見たが、例えば幾何の授業では最初から正確で美しい図形が表示されている。おかげで先生はいびつな立方体を何度も描き直さなくて済むし、生徒たちもコピペでOK。しかしそれでいいのだろうか。立方体がフリーハンドで描けなくたって生活に支障はないと言われたらそれまでだが、代わりに大きな財産を失っていないだろうか。

副業でWEBプログラミングの講師をしていた頃、ひんやりとした教室で常に感じたこと。無表情な受講生たちは隣同士喋ることもなく、席を周ったときの質問は、「これ・・」とディスプレイのエラーを指差すだけだった。コース終了後にアンケートを求めれば、○×で済む箇所しか記入がない。この人たちには生の感情があるのだろうかと哀しくなった。

文部科学省の「スクール・ニューディール」構想とは、21世紀の学校にふさわしい教育環境の抜本的充実を図ることだという。メリットが分からないまま国民を振り回す「地デジ化」の二の舞を踏まないで欲しいと願うのみである。

コメント

  1. 的は逗子の素浪人 より:

    「デジタル辞書」も便利だけど、開いたページの知らない言葉に会って、感心する楽しみがなくなったなぁ。

  2. yuris22 より:

    的は逗子の素浪人様

    デスクにデジタル辞書を置いてあるのですが、開けば「電池が消耗しています。交換してください」の表示が頻発。ボタンを押しながら言葉を捜すスピードだってストレスがかかります。
    普通の書籍がやっぱりいいなと、慣れ親しんだ年季ものの辞書に戻りました。ページを開けば、茶色くなった押し花が見つかるのもノスタルジックです。

  3. marie より:

    確かに手書きで文字を書かなくなる事で文字の退化はありますね。
    私自身もそうです。
    小学校の書類や、ノート、教科書等、職場でのメモを書く時の苦痛さは感じますね(笑)
    通信教育の「ペン習字」でも習った方がいいのかもしれませんね(^-^)

  4. yuris22 より:

    marie様

    我ながら変な現象なのですが、文字をゆっくり書くことが出来なくなりました。キーボードを打つのと同じぐらい速く書かなきゃと焦るのです。従ってますます読みづらい下手な文字に・・^^;
    ほんと私もペン習字を習おうかな。

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