この写真を撮ったのは今年の4月14日だ。馴染みのラーメン屋が店じまいの片づけをしていると聞いて駆けつけたら、既に中はがらんどう。ドアの貼り紙には「頚椎の故障のため営業するのが難しくなった」という理由と、マスターの連絡先。どうしたらいいものか、とりあえず携帯のカメラで電話番号を写した。
目黒の三田通りにある大龍。恵比寿ガーデンプレイスに住んでいた頃、さんざん酔っ払った最後に立ち寄っては迷惑をかけた店。暖簾を下げようとする時刻に、赤ワインのボトルを持ち込んでは「来ちゃったー」と襲撃する。火を落とした後に「餃子がどうしても食べたい」と騒ぎ、マスターが晩酌用に取っておいた肴まで戴いてしまう困った客であった。
私はマスターをお父さんと呼び、マスターは「うちの我侭な娘でねぇ」と、居残ってるお客に私を紹介する。スタッフもお客も帰った後、2人で人生談義をしながら、気付けば空が白んでいることもよくあった。ホテルマンだったお父さんがラーメン屋を開くに至るまでの苦労話。奥さんとヨーロッパ旅行をしたときの思い出話。アルバイトの従業員たちが企業に就職して出世した話。何度も何度も同じ話を聞かされて、その度に酔っ払いの娘は感動して笑って泣いたものだ。
逗子に引っ越してから、訪ねる回数はめっきりと減ったけれど、ドアを開けた瞬間に満面の笑みを向けてくれるマスターは、もっともっと私のお父さんだった。閉店することを知らせてくれなかったのは、娘を心配させたくないという親心だったのだと思う。
一昨日の夜、当時の飲み仲間と久々に集った。ラーメン屋が寿司屋になったのは聞いていたけど、マスターはその後どうしているのだろう。頚椎は治ったのだろうか。
友人がポツリとつぶやく。「閉店してすぐに、亡くなったんだよ」。私は言葉が出なかった。不器用に言えたのは「いい人ほど、早く逝っちゃうんだね・・」だった。
引っ越した後でも、どうしてもっと顔を出さなかったのだろう。閉店の貼り紙を見て、どうしてすぐに電話しなかったのだろう。後悔は時間が経つほどに、胸に痛みが膨れ上がってくる。
今日はザーザー降り。しかも寒い。「どうだー、これぐらい泣いてみろー」と、お父さんが降らせている雨なんだろうね。最後の暖簾が閉まった後で、本当にごめんなさい。カウンター越しに乾杯したビールの味は、心の中で苦い涙の味になった。
コメント
私、日本に居た頃に目黒勤務だったんです。
そういえばこのお店の看板に見覚えがあります。
今日のお話はとても悲しいですね…。
まさかお別れがこんなに早く、突然に、そしてひっそりと訪れていたなんて…元気出してくださいね。
それで、肝心のラーメンはお食べになったのですか?
以前の日記に登場した、食べた事のないラーメンですよね?
一度位は食べられたのでしょうか?σ(^ー^;)も気になってしまいました。
華梨様
体育会系の頑丈そうな方でしただけに、最初は信じられませんでした。これだけ月日が経ったので、亡くなった原因については聞かずにいようと思います。ご冥福を祈るのみです。
ラーメンは2度ほど食べましたよ。「おいしい!」と褒めたら、「エッヘン!」と腰に両手を当ててました。
こまちゃん様
逗子に引っ越した後も、数回お店を訪ねました。そのとき三色餃子と共にミニラーメンを戴きました。もっといろんな種類を食べたかったけれど、もう夢の中の味です。
はじめまして。
大龍に通っていた者でして、検索していてこちらに辿り着きました。
面識もないのに突然の長文コメントをお許しください。
早いものでもう25年前になりますが
大学生の頃、わたしも大龍さんに毎晩通っておりました。
当時は未だガーデンプレイスもなく、お店も道路を挟んで自動車学校側にあった頃です。
わたしも食事というより呑み処として毎晩利用させて頂いてましたゆえ
ウーロンハイのダブル(普通に頼むと薄いので)とおつまみ数品でしたが
餃子や肉焼きそばをよく頼んでおりました。
わたしはマスターのご子息…いや、”せがれ”と年が近くたまたま同じ大学でもあった為、
マスターの”うちのせがれ”が就職先を内定された話を聞かせて頂いたり
わたしが内定した時にも息子のようにお祝いのお言葉を頂きました。
店員さんの客の私のほうが頭の下がるような接客を頂きましたが
本当にマスターのお人柄あってのことだと思います。
私の卒業式の日に上京した母も、まず大龍さんへ連れて行き
一人上京した私に毎晩ご飯を作ってくれてている
(あ、もちろん代金は払ってますよ)東京の親として
紹介させて頂きました。
その後、我が家でもあの店に母の好きな福山雅治が来店したらしい、といった話で盛り上がったり
母親は今でもあの店の肉焼きそばが美味しかった、
もう1度食べたいと帰省する度に言っております。
私が大学を卒業し、いよいよ引っ越す最後にお邪魔した日に
マスターはわざわざ”今日はおごるぞ”と言うわけでもなく
さりげなくバイト店員に小声で「あちら様にウーロンハイダブルを」って
ニクい最後の一杯をご馳走になった思い出は今でも忘れられません。
私が就職で引っ越した後、道路反対側(ご存知の黄色い看板の方)に移転されましたが
新入社員の同期を引き連れてお邪魔したり
学生だった自分の成長度合いをご報告する意味でも
年に1度くらいは立ち寄らせて頂いてたのですが
2、3年くらい前に閉店されていて。。。
年々お痩せになっていたし、ご年齢から隠居されるお年でもあることから
寂しいながらも、受け入れざるをえませんでしたが
ひょっとして、あれだけ元気なマスターのことだから
またどこかに移転してあのでっかい中華鍋ふってるのではないか?と
思い出した時にネットで検索をしていた次第です。
そして今日この織田さまの日記に辿りついた次第です。
美味しい酔い方を教えてくれたウーロンハイダブル!
移転先まで持ち込んだ自慢の大物カレイの魚拓!
実はカレイより自慢したかったセガレの馬鹿野郎話!
それから
ニヤッて「照れ臭そうに笑うドヤ顔」は一生忘れません。
合唱
なおとり様
コメントをありがとうございます。
女一人でも長居できる店として、恵比寿の「大龍」と「KANA BAR」には週の半分くらい顔を出していたと思います。どちらも突然マスターが亡くなってしまい、心の拠り所がなくなった恵比寿は殺風景な街になりました。
「大龍」の三色餃子は最も気に入っていたメニュー。「おいしい!」と褒めたときのお父さんのドヤ顔が見たくて、お腹いっぱいの時でも注文していましたよ。