「ありがとう」が繋ぐ介護と医療

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私は携帯電話が鳴るのが恐い。父が入居している介護施設から緊急連絡が来るのが恐い。「高熱が続いたまま下がらないので、救急車を呼んで病院に搬送します」という連絡には何度も肝を冷やした。嚥下性肺炎や腎盂腎炎、心臓にペースメーカーを入れる手術もしたが、7年前に脳出血で高次脳機能障害となった父にはいつ何が起きても不思議ではないのである。

 

桜吹雪の舞う道を介護施設まで、今日は呼び出しを頂いた主治医との面談に行った。内容は父の睡眠障害についてである。夜眠れなくてナースコールを押し続ける父に入眠剤を処方したが効きめがない。もっと強めの薬剤を処方しても良いかとの相談だった。以前だったら昼間に爆睡していたのに今はずっと起きているので、日々の疲れが溜まると身体に差し障るとの心配である。父に聞こえないようこっそり「痴呆・・」と話してくれた先生に、私は納得して静かに頷いた。

 

人間好きで女好きで、フロアにいる女性入居者やスタッフの名前を全て記憶していた父は、この1~2年で誰の名前も口に出せなくなった。呂律の回らない口調で「今すぐ来てよ」と何度もかかってきた電話が途絶えた代わりに、お見舞いに行けば私を実母や継母の名前で呼ぶ。「継母さん来ているの?」と聞けば、来ているはずなのに「来ていない」と言う。現状の致すところは誰彼かまわず握手を求め、相手の一挙一動への返事は必ず「ありがとう」となった。

 

こんな父を親身になって見守ってくれる主治医はまだ若く、そしてイケメン。なのに神経系の病気で歩行が困難。父のいるフロアーへエレベーターで上がってきて診察室まで歩いていく姿は、小児麻痺だったのかと思う歩き方で、白衣を着ていなければ患者さんに間違えたかもしれない。そんな先生に比べて「仁」の足元にも及ばない私は恥ずかしいばかりだ。

 

胸に聴診器を当て「息を吸って下さいね」の先生の言葉に、父は「アーッ、ウーッ」と寄声を上げ続け、ナースさんが「そこまで息しなくて大丈夫ですよ~」と失笑する。可愛いね。空気が和やかになって先生の目にも笑みがこぼれた。父の具合が悪い時には休みの日にも様子を見に来てくれる方なのだ。

 

一世一代で企業を立ち上げてCEOとなった父がどんどん幼児のようになっていく。食べることだけが楽しみで、今はどんなペースト食にさえ文句を言わず、ドロドロの液体をスプーンで黙々と口に運ぶ。最後の一すくいどころか、ビニールエプロンに落ちたのも口に運ぶ。今日のランチメニューは「照り焼き丼」だったけれど、かろうじて米粒が見えるお粥の横にあるのはベージュ色のムース。温野菜のサラダも緑と白の絵具みたいなムースだった。

 

ひたすら食べるだけの父に「美味しい?」と聴けば「ありがとう」の返事。デザートに持っていった特大プリンを平らげた後はウツラウツラと船を漕ぎ出す。眠くなってくれたことが嬉しくて、でもスタッフの皆さんには夜に迷惑をかけることが申し訳なくて、逃げ帰るしか無かった自分が情けない。

 

昼下がりを過ぎても、隣の診察室では先生がまだ入居者たちの健康診断を続けている。とても痩せていた風貌からしてお昼ご飯を食べる暇もないことを想像しつつ、私には感謝することしかできない。声が聞こえてくる閉まったドアに「ありがとう」を言って、そして父の何度も何度もの「ありがとう」に送られて下りのエレベーターに乗った。

コメント

  1. 的は逗子の素浪人 より:

    お父様がたのしく過ごされていらっしゃるならいいのではないでしょうか。
    医療関係者の方に恵まれていいですね。

  2. marie より:

    私の知り合いで介護施設で働いている方が言ってた話ですが、施設に入っても「母ちゃんと寝たい」とか「一回一万円で・・・」などと言うおじいさまもいるそうです。しかも触られるのは日常茶飯事・・・。
    キレる性格の人では務まる仕事ではないようです。
    そして、人と関わる仕事に就いたことで人間の表や裏、夫婦も色々、家族も色々、親子も色々で見たくない裏まで見えるとのことです。
    そして、「生きるって何なのかな~」と考えさせられるとのことです。
    人間は欲の塊でもあります。
    「お金、物欲、食欲、睡眠欲、性欲・・・」本当にわがままな生き物です。
    けれども、その欲は全て人間が健全に生きていく為に必要なものです。

  3. yuris22 より:

    marie様

    人間から煩悩が無くなれば、魂の入れ物である身体は衰えていくばかりですからね。
    赤ちゃん帰りしていく高齢者は、お母さんのおっぱいを吸っていた時期に戻り、やがては死によって生まれる以前に戻っていくのでしょう。それを醜いと見るか可愛いと見るか、介護を仕事とされている方々のご心労は計り知れないと思います。

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