過大評価されるプレッシャー

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私の住まいは駅から歩くには遠く、タクシーで1,500円ほどの距離だ。よほど大荷物でない限りは、190円のバスを利用するようにしている。
先日偶然に乗り合わせた飲み仲間から「えーっ、ゆり子先生ほどの人がバスに乗るんですか?」とビックリされた。物書きなので「先生」というニックネームで呼ばれているのだが、「先生ほどの人」となると、周りの乗客たちはどんな偉い人間か・大金持ちかと一斉にこちらを見る。照れ臭さで真っ赤になり「いえ、その、私バスが好きだから」としどろもどろの返事をしてしまった。

本人はごく凡人であるのに、何故か昔から過大評価されやすい。誤解されすぎだ。
小学生の頃から秀才と思われ、知能指数は150と思われ、語学堪能と思われ、芸術の才能に長けていると思われ、経済に詳しいと思われ、予知能力があると思われ、由緒正しい家系と思われ、金持ちと思われている。「ぜーんぜん、そんなことありません!」と反論しても、「何ムキになってんの」と取り合ってもらえないから始末が悪い。

そもそも日本人とは、格差が好きな民族なんじゃないかと思う。「大奥」「水戸黄門」「華麗なる一族」「花より男子」といった格差を象徴したようなドラマを好み、逆立ちしても敵わない権力者や大富豪に拍手と溜息を捧げる。友人にステイタスの高い人物がいた分には、自分まで偉いような気がして鼻を膨らませる。

その一例が出身校。私は皇后陛下が通われたS女子大を卒業したのだが、昔の人ほどS女子大生 = 名門のお嬢様という美智子様効果が刷り込まれていて、小市民の私にまでハイソなイメージを重ね合わせるらしい。否定すればするほど相手も引かなくなるので、出身校は出来るだけ口にしないようにしている。祭り上げられるのは大きなプレッシャーだ。

格差について五木寛之いわく「手のとどかないものに憧れる。そういう本質を人間は抱いて生きている。努力とか幸運では決してつかむことのできないもの、家柄などもまちがいなくその一つだろう。それ故に時代が変わっても、変わることなく生き残るのだ。」
(「遊行の門」より引用)

孤独とひきかえに手に入るもの。大衆と一緒では手に入らないもの。もしそれを私が持っていると周りが言うなら、素直にそしてちょっと淋しく喜ぶことにしよう。横並びになるのではなく、孤高を持することが、神様から与えられた道なのかもしれないと思っている。

コメント

  1. marie より:

    私も、「ゆり先生程の人がバスに乗るんだ!」と思いました。
    私だったら、どこ行くにもマイカーですよ。
    まぁ、住んでいる場所の生活習慣でもありますが・・・。
    けれど、売れている芸能人とか、セレブと言われる人ほど、生活が上手で節約もよくやっている。
    青田典子のように一見派手に見えるひとでさえ、毎日上手に節約している。
    私は、主婦と言えども、共働きで親と同居という境遇甘えて引き落とされている公共料金や貯金以外はほぼ使ってしまっている。これではマズイと思い、最近では一週間分しか財布にお金を入れてません。
    一週間1万とか2万と決めてそれ以上は財布に入れないんです。意外と効果ありますよ。
    いい歳(36歳)にもなって今更と思われそうですが(笑)

  2. yuris22 より:

    marie様

    実はこの歳にして、とてつもない結婚願望があるんですよ。サザエさんになりたい(笑)
    主婦として掃除・洗濯・炊事を日課とし、チラシでチェックした安売り商品を買いにチャリで出かけ、夕げにはお父ちゃんにビールを注ぐ暮らしを夢見ております。たぶん「なに言ってんの!」と笑われること然り、ない物ねだりなんでしょうね。そんな願望を実現させてくれた男性はこれまで誰もいません。「君は一人でやっていけるよ」こそ言われたくない言葉№1です。
    お財布の万札は見栄えがいい枚数かと思いますが、入っていても使いません。独身女の未来は大バクチなので節約を心がけています。まあ、いざとなったら橋の下で暮らしても構いませんし、逗子だったら釣竿1本あれば新鮮な食材をゲットできるでしょう。元祖・湘南ガールは釣りやワカメ取りが上手なのです(笑)

    いずれにせよ、人には決められたレールが敷かれているようです。大きな幸せというゴールを目指すのでなく、走っている毎日毎分毎秒が小さな幸せだったらどんなに良いだろう・・・。コツコツと物を書きながら、私なりの形を築いていく今日この頃です。

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