宮城県石巻市を襲った津波により、公民館の屋上に乗り上げたままだったバスが1年ぶりに地上に降ろされたという。降りしきる雪の中で行われる作業を被災地の方々はどんな思いで見ていたのか、温暖な地でのうのうと暮らしている私には計り知ることが出来ない。
『宮城県石巻市雄勝町で10日、東日本大震災の津波で2階建て公民館の屋上に乗り上げたままになっていた地元観光会社のバスが約12メートル下の地面に下ろされた。
約500メートル離れた車庫から流された。被害の象徴として保存を求める動きもあったが、市は「恐怖を思い起こさせる」と撤去を決めていた。ワイヤを掛けられたバスは、大型のクレーン車を使ってゆっくり下ろされた。数日後に解体し、処分場へ搬送するという。』(2012年3月10日 読売新聞より引用)
これまでいちばん多く訪ねた被災地は石巻。「だいぶ片付いたね」と言いながら、ガレキの山がごっそりと海岸方面に移動したにしか思えず、車の窓から何度も目にした壊れた民家たちは相変わらずの姿だ。屋根がへしゃげ、壁に大きな穴があいたままでブルーシートで覆われることもなく、前にここを通ったという道しるべになってしまった。
家族で暮らしていた家が廃墟になって残っているのを見るのは辛いだろうに、家主は何処へ行ったのだろう。取り壊す資金がないのか、もしかして命を失ってしまったのか、時が止まった空間で唯一静寂を破るのは、憎たらしいカラスだけである。
3.11の爪痕を震災モニュメントとして残すかどうか、被災地では判断が分かれているという。「被災を風化させないため」という意見に対し「身内が犠牲になった建物をいつまでも見ているのは辛い」という意見。どちらも一理あると思うが、もしこれが戦争であったなら後世へ人類の平和を呼びかけるためのモニュメントとなるだろうが、自然災害による恐怖の残骸を防災の喚起を促すモニュメントと呼べるのだろうか。
1933年の昭和三陸大津波では、青森・岩手・宮城の3県に200ほどの「津波記念碑」が建てられた。中でも宮古市の港から800m、海抜60mの地点に建った石碑「大津浪記念碑」には『高き住居は 児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、此処より下に家を建てるな』の碑文が刻まれ、文言は先人の教訓として子孫に引き継がれていった。石碑は観光収入に結び付くモニュメントにはならないが、被災者の心の傷を掘り返すような残虐性はない。思いやりと知恵のモニュメントだ。
尊い命を奪われ、今は愛する人たちを空から見守っている人たちへ、明日の14時46分には世界中で鎮魂の祈りが捧げられるだろう。我慢していた涙がまた堰を切ったように溢れるだろう。これからも仲間と一緒に細々とボランティア活動を続けていくしか能のない私だが、見聞きしたことを言葉のモニュメントとして残せればと思っている。
追記:
津波の到達点に桜の木を植樹し、逃げる道すじを後世に伝えようという陸前高田市の「桜ライン311」は、パーフェクトまでに素晴らしいモニュメントだと思う。日本人の桜、心の桜、命の桜。愛して応援します!
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