めげずに咲いた冬薔薇と小さな蕾

広告

深夜に原稿書きが終わり、集合ポストへ郵便物を取りに行った。頬に当たる空気には尖った冷感がなくなり、山から降りてくる香りが春の近さを教えてくれる。しかし周りを見渡してビックリ。植物たちが息絶え絶えとなり、ピンクの小花を絨毯のように咲かせていた雑草さえ根こそぎ無くなってしまった。マンションの長期修繕が始まって、足場を建てるため邪魔なものを刈り取っただけでなく、ペンキ塗りと防水工事のシンナーでみんな枯れてしまったのだろう。仕方ないと部屋に戻りかけたところで、何で!?と驚く花を一輪だけ見つけた。

DSC_2523
冬薔薇。歳時記では冬の季語なので、弥生を迎える今にこの呼び名は季節外れだが、暗闇でうつむいていても瑞々しく、触ってみると柔らかい。この時期に狂い咲きするバラは赤黒いものが多いのに、とてもやさしい真紅の色をしているのである。本来なら夏の季語である薔薇がどうして今頃、ペンキやシンナーにも負けずに?

手がかりを探して、水原秋櫻子・加藤楸邨・山本健吉が監修した古い歳時記を開いてみた。解説を引用する。
「冬菊とか寒牡丹のように、特別な品種や手当をしたものではない。四季咲きバラなどで、冬に入ってからも名残りの花を開くさまをいう。すでに葉は変色し、落葉をはじめているなかで、輪(りん)をつめた花を開こうとする姿は、けなげであり、あわれでもある。ただし、冬薔薇という言葉のなかには、実態をこえた美意識もあるという(飯田龍太)。」

確かに葉の緑は弱々しくなっているが、よく見ると隣に小さな蕾がピンと空を向いている。「けなげ」や「あはれ」ではなく、この蕾は確実に春の喜びを捉えているような。数々の悪条件を撥ねのけて咲いた真紅の一輪と、凛としてこれから開こうとする小さな蕾。もう歳だなあと疲れて元気をなくしている私に対し、人生を諦めるなというメッセージを形で伝えてくれているようだ。実態を超えた美意識は、美容整形のオペみたいに一朝一夕に築かれるものではく、宇宙から引き継がれたDNAの研磨なのだろう。

「冬ばらの蕾の日数重ねをり」(星野立子)

一休みする明日は上野まで足を延ばし、東京国立博物館へ「みちのくの仏像」展を観に行く。東北の素朴な人間味を表情に湛えた仏様たち。東日本大震災の被災者たちに慈愛を注いでくれたそのお姿は、耐えて微笑む冬薔薇そのものに違いないと思っている。

コメント

  1. こまちゃん より:

    谷村新司の歌に「ふゆそうび」って歌詞があったのを思い出しました。
    モチロン、漢字だったら読めませんがw
    結構いい歌が有るんですよね。異常な中国好きに呆れてますが。

// この部分にあったコメント表示部分を削除しました
タイトルとURLをコピーしました