My Lost Valentine

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今日はバレンタインデー。
男子社員たち全員に「本命チョコ」を渡すべく、両手に紙袋を下げて家を出た。

ガーデンプレイスから坂を下り、三田橋を渡りながら、右手にある厚生中央病院の窓を見上げる。
去年の今日はチョコレートの箱を持ち、面会時間終了ぎりぎりに病棟に駆け込んだっけ。毎日私の見舞いを楽しみにしている彼に、いつもの日経新聞と共に手渡す。

チョコ

始まりは1月の末。
「やばいことになった。腫瘍マーカーの値が普通の人の100倍ぐらいあるんだよ。」
年明けから体調不良を訴えていた彼からの電話。
急遽、厚生中央病院に入院して全身の検査を行い、約3週間後に「胆管癌」との告知を受けた。既に肺にも転移して、手術できない状況にあるという。

国立がんセンターの計画治療病棟に転院。
進行がんの患者に対して新しい治療を試みる病棟だが、抗癌剤は何の効き目もなくて退院。
そこから戦いの日々が始まった。

どこかに奇跡を起こしてくれる医者はいないものか。
毎晩深夜まで情報を検索し、友人たちに協力を願って回り、やっとのことで抗癌剤治療のスペシャリストと言われるH医師の検診を受けられることになった。

H医師がS病院で行っている癌相談は、1組につき1時間。
自分は相談を受けるだけで、もう患者は受け入れていないという先生に対して、なんとか彼を治療して貰えないかと頭を下げた。
土下座なんて意味がないと話す先生は、「あなたは見返りに、僕に何をしてくれるんですか?」を繰り返す。

厚生省に新しい抗癌剤を認可してもらえるよう、署名活動をします・・。
うちの会社の隊員たちや家族にお願いして、1万人の署名を集めます・・。
ひたすら説得した3時間後、先生はため息を付ながら彼の受け入れを承諾した。

「これで助かるね!良かったね!」
あくる日の午前中、S病院へ入院。
しかし結果的にはそのあくる日、彼は病院から追い出されることになった。

仕事を抜け出し病院に行くと、H医師が冷たく言い放つ。
「この人は僕の本なんて全然読んでないじゃないですか。もう診るつもりはありませんね。」
ベッドに横たわった身長180cmの大男が、ポロポロと涙をこぼす。
「なんとかなりませんか? お願いします、助けて下さい・・」
その様子を見てしばし考えた先生から、提案があった。
「この人には通訳が必要だ。僕の患者で治療費が続かなくて、抗癌剤のランクを落とさざるを得ない人がいます。その彼に間に入ってもらいますから、治療費を払ってあげて下さい。」
その額は1ヶ月につき200万円。

考え込む彼を置いて、先生は私をナースステーションに呼んだ。明るく嬉しそうな表情だ。
彼が毎月そんな大金を払えないことを伝えると、表情は一変し、ヒステリックに怒鳴り散らす。
「僕の本の意味もわからない患者なんて、子供と一緒だ。あなたはその子供の保護者なんでしょ。だったらあなたが払いなさい。聞いたじゃないですか、あなたは見返りに、僕に何をしてくれるのかと。」

病室に戻ると、彼は帰り支度を始めていた。
「金云々の問題じゃない。あんなヤツに診てもらうくらいなら、死んだ方がいいよ。」
その晩、家に戻った私は、自分の無力さが情けなくて泣き明かした。

 

そして癌難民となった彼は、それでも諦めずに治療法を探して奔走。
1ヵ月半後に息を引き取った。
免疫治療に希望をかけようと自分で車を運転し、最後に望みを賭けた医師のところへ行ったのが、亡くなる1週間前。
そこで最後通告を受け取る事になったのだ。
「免疫治療どころじゃない。黄疸が出てるじゃないですか! あなた死にますよ!」

 

面会謝絶の病室。
意識がもうろうとしている彼の唇にキスしたら、しゃがれた声で「愛してる、愛してる、愛してる・・・」と私が部屋を出るまで繰り返した。それが最後だった。

季節は過ぎ、あれから8ヶ月ちょっと経った。
もう泣かないと決めている私だけれど、思い出のバレンタインデーにはその決心も危なくなる。
チョコを一口かじったら、涙のしょっぱい味がした。

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