10月最後の金曜日。仙台駅から2時間半で到着した牡鹿半島の小渕浜は、小春日和の長閑な海が出迎えてくれた。5月に訪れたときは茶色くなって傾いていた樹木たちも、今はまっすぐに緑の枝を伸ばしている。しかし津波の傷跡はまだ癒えておらず、倒壊した家々はそのままの姿で残っているところが多い。
小渕浜の仮設住宅にコタツと敷・掛布団100セットを贈るにあたり、仲介役となって下さったのは「割烹民宿めぐろ」のご主人・目黒さん。「ガイアの夜明け」など3.11を報道した番組によく登場した有名人である。私たち恵比寿ロータリークラブの4人をにこやかに出迎えて下さり、事細かに津波の被害について話を聞かせてくれた。
下の画像は海に向いた窓から撮ったもの。大津波は民宿のすぐ下まで左右からやってきて、浜の家々を82%も全壊させたという。今は仮設住宅で暮らしながら、民宿のスタッフとして働いている女性は「ぜーんぶ流されて、写真は一枚しか拾えなかったよ」と、あっけらかんと笑いながら説明してくれる。人懐こく親切に、遠方からやってきた客をもてなそうとする表情には微塵の陰りもない。
民宿の片側(海側)は傾いたのをジャッキアップ。流された公民館に代わって避難所となった大広間64畳には、当初50人が共同生活。余震のたびにまた津波がくるかもしれないと、夜中も変わりばんこに起きて番をしていたという。4月7日の深夜に震度6の揺れが来た時には、全員が一斉に裏山へ避難したそうだが、そのときに比べれば今のちょっとの揺れ程度は慣れっこになってしまったらしい。
わかめや昆布、小魚など地物の昼食を戴いたあとは、外に出てコタツの贈呈式。二人の区長さんが自ら軽トラックを運転して、仮設住宅へ何度も往復して運搬作業を行う。どこへ何個届けるか既にリストまで出来ていて、この日を待ちわびていたことが伺い知れた。
道をふさいで作業をしているので、通りかかった車は待たされているのだが、誰も文句を言わない。「ここは小渕浜の銀座通りだ」と笑う目黒さんとは、すれ違う人も車も全員が知り合いで声をかける。大広間の避難所で3か月にわたり同じ釜の飯を食べた家族なのだ。
山のふもとに何列も並んだ仮設住宅はとても静か。通路に座って網を作っている漁師さんの仕事を見せて貰っていると、チラホラと住人のみなさんが外に出てきた。おばあちゃんがおぶっている男の子は、お母さんが地震の時に産気づき、ヘリコプターで石巻の日赤に運ばれて生まれたという奇跡のベビー。
「良かったら、中を見てってください」と招き入れてくれた仮設住宅には、可愛い写真が壁にいっぱい貼ってあった。初めての冬を迎える赤ちゃん。しかしトタン屋根の天井からは冷気が伝わりやすく、壁にもたれかかるとひんやり。床にはパンチカーペットが敷かれているが、はいはいするには痛くて冷たいので、避難所から貰ってきた畳を敷くなどあれこれ工夫している様子も見せて頂いた。
道路に積み上げられたコタツは掛布団・敷布団と数を合わせながら、またトラックに積んで敷地の奥へと運ばれていく。受取りにきた老夫婦が「これで暖かく年を越せます」と、何度もお辞儀をして喜んでくれる姿に、長い移動距離の疲れなど即座に吹き飛んでしまった。
これまで何度か被災地に来たけれど、こんなに地元の皆さんと話が出来たのは初めてで、苦難を乗り越えてきた強さには感服するのみである。泣かない、怒らない、負けない。冗談を欠かさず、いたわりあいながら、心の中に日だまりを持っている人たちなのだと思った。
午後2時過ぎに帰途の車に乗ると、見送ってくれる目黒さんが後ろで大きく手を振っている。「頑張って下さい」なんて言葉は決して使いたくなく、「ありがとうございます」「また寄らせて頂きます」しか言えない私だったけれど、こんな貴重な出会いをプレゼントして下さった皆さんには幾ら感謝してもしきれない。
「幸せは分け合うほど増えていく」ばかりか、分け合うほど大きくなることを実感した一日であった。
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