やっと今日の仕事が終わり、深夜のニュースを見ながら夕食をとった。ホッと一息ついて気付いたのは友人から貰った菜の花。水を変えなきゃと花瓶を持ちあげると黄色い花びらが一斉に散って、あたりが小さな菜の花畑になった。それと同時に思い出したのは愛媛県に住んでいた幼い日の映像。家の前に広がっていた菜の花畑を、真っ白な日傘をさした母が泳ぐように歩いていく美しい姿だ。それは祖父が事業に失敗して倒産し、銀行の支店長だった父が貸金の責任を問われて一家離散した直前の記憶だと思う。
私はブログに継母の話は書いても、実母のことは殆ど触れなかった。その理由は最も書きたくない人物だったからだ。私が母のお腹にいた頃から、父の愛人だった継母は執拗に妻の座を狙い続け、無言電話などで私たち母子に嫌がらせの数々を繰り返した。深夜に二人が密会するアパートを睨み続けた実母は帰りの電車賃もなく、私の手を引いて川に飛び込もうとしたこともあったと思う。幼い私は理由が分からず泣きわめくのみで、何となく感じ取ったのは女の業(ごう)。腹立ちまぎれに学校の男教師まで誘惑しようとした実母が不快極まりなく、憎しみまで感じるほどになったのは封印したい記憶だった。
日に日に継母の嫌がらせはエスカレートし、水商売で資金を稼ぎ、ついには父が新しく興した会社の共同事業主とまでなった。しかし実母は私たち一家が愛媛から東京に出てきた時に苦労して作った小さな会社で、コツコツと経理の仕事をしながら、一人娘が成人するまでは離婚することを避けようとしていたようだ。
そして私が大学を卒業するころにボーイフレンドと結納を交わす時、実母は新しい男のもとへと逃亡した。ずっと関係があった間柄かは知らないが、私が独り立ちできるまで我慢していたのだと思う。披露宴後の宿泊ルームに実母から届いていた「おめでとう」の花束。学生時代の誰かさんと飲み歩いて朝まで帰ってこない新郎への苛立ちと共に、私はその花束を蹴飛ばした。寂しくて悔しくて涙が出るばかりの夜を、たぶん実母も嫌と言うほど何十年も経験したのは分かっていたけれど、まさか自分も同じ目に遭うとは思わなかったのだ。
ブログでは書いても書いても書き切れないので、後は端折ることにする。いつかは小説という形にするとしても、私が実母と徹底的に疎遠になった理由だけ書いておこう。家族愛に恵まれなくて悩んでいる人たちへ、下には下がいる安心感を持って欲しい。
脳卒中で倒れた父が生死の境を彷徨ったあと、ろれつの回らない舌で実母の名前を何度も呼んだことがある。どうしたものかと電話すると「マンションの一つでもくれるなら、行ってやってもいいわよ」との返事。なだめすかして継母とバッティングしないように病室へ招き入れたものの、頭がイカレた父にとっては「あ、そう」程度の肩すかしな再会であった。
しかし大きな問題はそのあと。実母と喫茶店に移り、積もった話を始めたときに突きつけられた言葉は私の存在を打ち砕いた。
「あなたは自慢の娘なの。もし私が死んだときには葬式には来ないでね。遺産を要求しに来たと思われると困るから」
父が倒れたから擦り寄ったと思っているの? この時をもって私は実母を他人と決め、それから一切連絡を取っていない。いや、一度だけ凄い電話をかけたことがあったな。あんたなんか人間じゃないと今までの恨みつらみを叩きつけ、それから私たち母子は一切音信不通となった。彼女は細い一本の糸としてこのブログを読んでいるかもしれないが、子であることを拒否された悔し涙は止まらず、しかも菜の花畑を泳ぐ美しい姿は憧れとして消えず、あの人は誰だったのだろうと思いを巡らすしかないのである。
皆さん、ごめんなさい。書き続けてきたブログの中で最も重い内容になってしまった。この数か月は文筆業の締め切りで四苦八苦する毎日だけれど、春になって落ち着いいた時には新しい仕事として心理カウンセラーのデビューを果たしたいと思っている。家族のこと、恋人のこと、友達のこと、学校のこと、仕事のこと、病のこと・・、「事実は小説より奇なり」の体験を胸の内に眠らせておくのではなく、誰かと共有したいからだ。
辛い記憶、新しい夢、いろいろいろいろ。実母が元気でいるかどうかは知らないが、少なくとも歳を取るほどに目や声が似てきたと認めざるを得ない自分が今ここにいる。
コメント
セピア色のトーン 菜の花の黄色 印象に残ります。
視覚、嗅覚...五感刺激の記憶は、なかなか消えない。
夢だったかもしれないが。
僕の無意識下にもある。
国場隆志様
ありがとうございます。菜の花は鮮やかな黄色ですが、昔を懐かしむ心の中ではセピア色ですね。
的は逗子の素浪人様
無表情・無関心な今の人たちは五感が消えつつあると思うのです。日本は回帰しないといけないよね。