6月10、11日と東北の被災地を周ってきた。あまりに盛り沢山な旅だったので何から書いたら良いのか、頭の整理をするべく、前篇・中篇・後篇に分けてアップしたい。
今回の復興支援活動にはフランスからのメンバーが加わった。ピレネー山脈の麓にある人口6,600人の町・サンジロン(Saint-Girons)からやってきた82歳のエコロジスト、クリスチャン・ジュベルティ氏である。来日したのは地学のシンポジウムに参加したとき以来40年ぶり。テレビで東日本大震災の映像を見るにつけ心を痛め、何とか自分たちも支援ができないものかと、クリスチャン氏が会長を務めるロータリークラブより申し出を戴いたのである。
6月10日は東京駅14時36分発のやまびこ55号で一ノ関へ。約40分待って大船渡線に乗り換え、最初の目的地である気仙沼へ向かった。夕刻時とあって2両編成のディーゼルカーは高校生たちでいっぱい。一同にスマホをいじってイヤホンで音楽を聴いているのは首都圏の学生と変わらないが、髪を染めている子や馬鹿騒ぎする子は誰もいない。爽やかで純朴そうな若者たちが、パラパラと山間の駅に降り立っていく姿は懐かしい映画のようだ。
気仙沼駅到着は19時15分。3年前の6月に車で炊き出しに来たときには前を通り過ぎただけだったが、駅舎は綺麗にリニューアルされて、両手を広げたピカチュウが出迎えてくれた。
迎えに来てくれた気仙沼プラザホテルのバスに乗り、日が暮れて静まり返った町の中を走っていく。気仙沼大島へ向かったフェリー乗り場のある港周辺からはガレキが無くなり、両手で鼻を覆ったあの悪臭も全くしない。復興に向けたアイデアを練り、被災した地区を1時間で周る観光タクシーまで走っているそうだ。
ホテルに着いたらすぐ夕食。気仙沼港に上がった新鮮な魚介類がお膳に並び、仲居さんがアワビの踊り焼きと釜飯に火を入れてくれる。クリスチャン氏はズワイガニに興味津々。カニフォークを使うのが面倒なのか、歯でかぶりついている横顔がとても可愛かった。
被災地でお金を使うのも復興支援だと、二次会は雨の中を「復興屋台村 気仙沼横丁」へ歩く。地元の食材をアピールする22の飲食店が入ったプレハブには明々と提灯がともり、気仙沼で80年続いたという焼き鳥屋さんが私たちを呼び込んでくれた。40代半ばのマスターはイケメンで独身。すぐに皆が打ち解けて笑い声が湧き起こるのは、小さな店舗ならではの温かさだ。
そして三次会はお客さんたちに連れられて、町なかのプレハブ商店街へ。1階にはラーメン屋などの飲食店、2階にはスナックが何軒か入り、なんと建築主は宮城県なのだという。家賃は1か月6万円ほどで、内装は自分持ち、5年契約で借りているそうだ。
昼間はブティックを経営しているスナックのママから震災時の話を聞いた。70歳のお客さんを乗せて車で避難したら、道路は渋滞で全く動かず。窓を開けて外の様子を見れば、5台ぐらい後ろのところまで津波が迫っている。慌てて飛び出たものの、どちらへ走っても波が向かってくる。10人ほどの集団に追いついて高台に登ろうとしたが、濡れた草の崖が滑ってなかなか登れない。万事休すと諦めかけたところを、周りの人たちがお尻を持ち上げてくれたそうだ。車から出て別れ別れになったお客さんはガレキに捉まって流されていたのを救助されて、偶然にも同じ高台に避難してきたという。
まるで昨日のことのように被災体験を聴きつつ夜が更けたころ、復興屋台村のマスターも合流。自宅が完全に流されて着の身着のまま、イチから店をスタートさせた話を聞かせてくれた。常に前向きでアクティブで、9月には石巻から気仙沼まで走る「ツール・ド・東北」に出場するそうだ。
こうして地元で生の声を聞いていると故郷にいる気分。名残は尽きないけれど、翌日は早起きして気仙沼から釜石へ行き、深夜に東京に戻るハードスケジュールだ。ブログはここで前篇を終了して、だんだん核心に近づくこととしよう。
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