お盆と戦後70年と宗教と・・

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しばらくぶりの投稿になる。2007年からブログをスタートして、こんなに間が空いたのは初めてのことだ。猛暑に負けてサボっていたのではなく、人間の生死について考えているうちに心が宙ぶらりんになって、言葉選びが出来ない状況が続いていた。

半分が自伝、半分がフィクションの小説を書き始めている。登場人物にはどうしても避けて通れない大切な人たちがいるが、その殆どが病気や自殺などの理由で亡くなっている。いつも数珠を握って念仏を唱えていた継母は、不幸な孤独死をして初盆。死ぬ瞬間に何を思い、私に何を訴えたかったのか知りたいけれど、残念ながら一つもメッセージは受け取っていない。幽霊だって見ていない。

お盆の時期。しかも今年の8月15日は70回目の終戦記念日。テレビでは太平戦争のドキュメンタリーや映画が毎日放映されている。葬られていたフィルムが公開され、画像解析の技術が進んだことにより新事実が解明され、90歳を超えた遺族の涙が映される。

広島の爆心地で吹き飛ばされたのに奇跡的に助かった人。我が子に覆いかぶさって一緒に黒こげになった人。
特攻隊で飛び立ちながら機の故障で生き延びた人。未完成の人間兵器の実験台になって命を落とした人。

死なざるを得なかった人と、生かされている人との違いは何だろう。生死を分かつのは、運命や業なんていう宗教的な要素ではなく、地球をプログラミングする「1 or 0(存在するか否か)」の2進法的な力じゃないかと想像する。それを神と呼ぶのは容易だけれど、宇宙の想像主が神なのかコンピュータなのか、物質でも気でもない「・・・」なのか、人類が編み出した言葉では説明できないもの。今そこに有りそうで、おぼろげなそれがどうしても掴めない。

このところ私には新興宗教の信者からのアクセスが多い。電話にメール、SNS・・と何が起こったのかと思う。彼らの熱弁に対して疑問を抱くのは、「祈れば救われる」の宗旨にしがみついていること。熱心に祈り続けても無残な最期を遂げる人間は幾らでもいる。それを「信仰が足りなかったから」で片づけて、小さな教祖の作った小さな世界で派閥争いをすることに疑問を抱かないのだろうか。全員集会で祈りを捧げている場にリトルボーイならぬサタンが落とされたなら、何と理由付けするんだろう。

小説のネタには事欠かない、いろいろなことが起こった。ゆらゆらと迷って悩んで呆然として回帰して、それでも生かされている自分。人の生死を考え始めたら宗教に行きつくのは自然な流れかもしれないが、肉体が滅んだあとの魂の行き場所なんかじゃなく、私はもっと大きなものを見つけたい。哲学の答えは既にあり、自分一人で見つけるしかないことだけを知っている。

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