石巻の牡鹿半島 ボランティア体験記その3

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昼食の炊き出しが一息ついた萩浜中学校を出発。野澤さんは車に支援物資を積み込み、焼きそばと焼き魚を乗せた紙皿と共に、避難所まで来られない遠方の被災者宅へ届けるという。

約2時間で回る牡鹿半島の南西部。根こそぎ家々が流された跡には、漁具の青いカゴが散らばっている。このカゴや浮きは道路脇の木々にもぶら下がっていた。

牡鹿半島
道路の危険個所にはコーンが置かれ、地割れした所にはなんと畳が敷いてある。水を吸えば重くなるし、タイヤが上を走っても畳は滑らないので役に立つらしい。

牡鹿半島の道路
牡鹿半島で孤立している南西部についてはYOMIURI ONLINEに写真記事がある。
漁師町 共に生きる」(2011年5月9日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/zoomup/zo_110509_01.htm

月浦から福貴浦、小網倉浜地区へ入っていくと、もはや擦れ違う車さえなく、時が止まったように感じた。静寂の中に聞こえるのはウグイスの鳴き声だけ。

地盤沈下で冠水する浜。満潮になるたび流れてくるガレキで道路が塞がれるので、復興作業をしているユンボが私たちの車を通すために道を作ってくれた。その後方に目をやると、打ち上げられた漁船に沢山の鯉のぼりが吊るされている。

ユンボと鯉のぼり
被災者たちが身を寄せ合っている個人宅へ支援物資を運ぶのを手伝って、家の中を見せて貰った。小高い場所にあるため家は残ったものの、一階は破壊されて使えない。炊き出しで焼いたホッケを見て嬉しそうに笑う漁師さん。「ありがとうね」と何度も頭を下げる姿が切なくて、飽食の都会から来た自分の居場所がなくなる。

小網倉浜1 小網倉浜2 小網倉浜3

漁港に整然と並べられているのは、ガレキの中から回収されたアンカー(いかり)。復興を信じる仲間たちで拾い集めているのだ。

集められたアンカー
小網倉浜から先に進もうとすると、景色が砂漠に思えてきた。全てが押し流された浜の中に、細い道路が作られている。

小渕浜遠景
1軒に4家族が暮らしている個人宅に最後の支援物資を届けた。この家には車はあっても、犬がいるので避難所では暮らせないという。

小渕浜1 小渕浜2 小渕浜3

重苦しい気持ちを抱えたまま、車は女川へ向かって走る。午後3時を過ぎると野生の鹿たちがピョンピョンと道路を横切る。錆びたガードレールの向こうに咲き誇っているのは、野生の藤の花。美しい紫がまるで弔いの色のように見えた。

野生の藤
そしてもう一度、女川町立病院の駐車場に立つ。早朝には人っ子一人いなかったのに、壊滅した町を眺めようと見物人が集まっていた。自衛隊の車両の横で、女性たちが一列に並んで「ハイ、チーズ!」と記念撮影。彼女たちの背景にあるのは、ビルの屋上で引っくり返った車の残骸である。

女川町 女川町立病院駐車場

女川町立病院駐車場2
このあと再び萩浜中学校に戻ると、料理人チームが豚の角煮丼135食を夕食用に並べ終わったところだった。パンやお菓子も皆さんが取りやすいように段ボール箱に詰め、明日も身を粉にして活動を続ける野澤さんを残して、私たちは5時に撤収。仙台駅に着くまで3時間かかったのは、仙石線が復旧していないので道路が大渋滞しているからである。復興の「ふ」の字も見えない石巻市は一日二回、今も海水の町だ。

お願い:
石巻社会福祉協議会では在宅介護者のために、介護ベット・車椅子をできるだけ多く必要としています。震災用に確保していたものが、ほとんど津波で流されてしまいました。どうか皆さんのご支援をお願いします!

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