降って湧いた不幸な出来事って、本当にあるのだろうか。それには本人が意識してなかった原因と結果があるような気がしてならない。
ある飲み屋のカウンターを、1人の女性客が独占していた。何度も聞いた自慢話に耳を傾けてくれるのはマスターだけ。他の客は店のすみに集まって背を向けている。彼女は「顔の美醜は神様のテスト」の日記に登場したトラブルメーカー。あちこちの店で出禁の繰り返しだ。
肩を並べた私に、彼女は近ごろ降って湧いた災難を語り始めた。還暦間近になって離婚した、怪我をした、仕事を辞めることになった・・等々、どれも自分のせいではないから同情は要らないと豪語しているが、周りは目配せして同じことを考えている。それこそ因果応報だよと。
良きにせよ悪しきにせよ、人に与えたものは自分に返ってくる。仏教では因果を3つに分けて善因善果、悪因悪果、自因自果と言うそうだが、自分は完全なる善だと信じていても、親の因果が子に報うこともあるのは過去生のツケ、業と輪廻だろうか。しかもgive & takeは必ずしも1対1でなく、1対100になって返ってくる。なぜなら業は宇宙の貯金通帳に貯められていて、利子は未来生で支払われるからだ。
この世に完璧な人間などいないし、むしろ欠点の方が多い。それを認めずに頂点に踏ん張って他人に反発すれば、向こうも反発を返してくる。山が削られるように人間関係はどんどん先細り、訪れるのは孤立という因果だ。
タイトロープを渡る人生で、誰もが幸せになりたいと願っている。愛されたいと願っている。蹴落とす足よりは差し伸べる手。そして差し伸べられた手を、素直に受け取る手こそ、幸せと愛とを実現する因果性ではないだろうか。
コメント
「情けは人の為ならず」
できるだけ多くの機会で、手を差し延ばしたいと思う。
的は逗子の素浪人様
先日ある若者に「私はあなたが嫌いです」と言われました。苦言を呈す相手はみんな嫌いになるらしい。苦言も差し伸べる手の一つだと思うのですが、いつか分かってくれる時がくるのかな。それでもお節介にならない程度に、私が元気でいるうちは、手を差し伸べていきたいと思っています。
なるほどねぇ・・・。
確かにそうですね。何事も原因があって結果があります。
問題は悪いことが起きた時にいかに対処するかだと思います。
反省する、自分の非は認める、こんな当たり前のことを全くしない人間も沢山います。
しまいには人のせいにばかりして我を省みない。
楽しいこと、うれしいことも沢山ある反面、つらいことが沢山ある世の中ですよね。
marie様
人生山あり谷ありで、なかなか平坦な道を歩けませんね。でも一人で歩くよりは、気心の知れた仲間がいたほうが心強い。友人の大切さを最近ひしひしと感じています。