桜の季節の車窓。大船駅から戸塚駅への間は客席に割り込んでも進行方向に対して左側に座る。子どもの頃から見慣れた工場群の景色と共に、ピンクの綿菓子みたいに優しい桜並木が今も変わっていないからだ。
ボランティア関係の仲間から呼ばれ、木曜日は徹夜明けの朦朧とした頭で新橋へ向かった。アクセスマップを印刷していたに関わらず、横須賀線の新橋ホームから、共同通信の記者会見が行われる汐留のホテルに行きつけない。地下の案内掲示板にはどこにもホテル名がなく、逗子の田舎者としては15分も遅れてしまった。「ダメだなあ」と気が滅入る。
今回の用事は、所属しているボランティア団体の災害復興支援委員会より、気仙沼の避難所にいた子どもたちが震災直後から手書きで「ファイト新聞」を作り続けたことへの応援である。初代編集長の理紗ちゃんは「避難所のみんなが明るく元気になって欲しい」と壁新聞の発行を思いつき、津波に流された自宅まで文房具を取りに戻った。ちなみにお父さんたちから3.11の状況を聞くと、1人は2階にいたまま流されたのが、家が傾かずに橋に引っかかって助かった。もう1人は20時間も屋根につかまっていたのを救助された。そんな過酷な状況を笑いながら話してくれるのは、学校にいた子どもたちが無事でいてくれたからだろう。
エプソンが最新鋭の技術でレプリカを作った「ファイト新聞」(現物は劣化して読み取り不可能な状態)が、パリのユネスコ本部のイベントで展示されることになり、私たちは子どもたち&付き添いの親御さんの交通費と宿泊費をご用立てさせて頂いた。出足が遅くて立て替えになったかもしれないが、少々でもお役に立てたのは嬉しい。子どもたちは長旅で眠くて眠くて、しかも当日中に会見場から気仙沼まで戻らなくてはいけないのに、どんな質問にも背筋を伸ばしてしっかりと答えてくれた。
今は小学2年生になった理紗ちゃんに「大人になったら新聞の仕事をしたい?」と聞いてみたら、「お医者さんになりたい」と答えてくれた。会見後にお母さんが教えてくれたことだが、おばあちゃんが若くして病死したことを聞いた理子ちゃんは、たった2歳のときに「私がお医者さんになって、お母さんのお母さんを助けてあげるね」と言ったそうだ。
そして大震災から一年後。失ったものばかりを嘆き、心を閉ざし続けていたお母さんに対して娘は明るく励ました。「気仙沼は変わっちゃったんだから、お母さんも変わろうよ!」と笑って元気付けてくれたという。
彼女を花に例えるなら「桜」だ。どんな災害が襲おうと希望の星である蕾は、うむついている人たちの顔を上向かせる花を開く。日本は変わろうよ。偉い人たちが喧嘩するのはやめようよ。誰のいる場所にも平等に桜は咲く。
会見が終わってゴーホーム。空を見ながら日が暮れる前に、一駅前の鎌倉で降りた。観光客の流れと逆行して、こんなに早くいっぱい咲いている桜を見つけて撮って、今年は最初で最後の花見とすることにした。だってね、日本でいちばんの桜はもう目に焼き付けたのだからね。ちょっとだけ私は「ダメだなあ」の人じゃなくなった。
コメント
なんかちょっと涙です。
植物は弱そうに見えるけど、一年を生き抜き、芽を蓄え律儀に咲き、人々を楽しませ、励まし、癒してくれる。
「変わったから、変わろうよ!」
子供たちが、一番強い桜。
(すいません・・・うまく書けません。)
的は逗子の素浪人様
大人は思い出がありすぎて何を見ても感傷的になりがちですが、子どもの目は未来へ向いているんですよね。真っ白な紙を色とりどりの文字や絵で埋めていったように、子どもたちが新しいふるさとを作ってくれると思っています。