お世話になった音楽関係者が亡くなられ、昨夜は四ツ谷の聖イグナチオ教会でのお通夜に参列した。実家の宗派は真言宗だが、私は中学から大学までカトリック系の学校に通ったせいか、教会での葬儀が最も胸に沁みる。オルガンの演奏に合わせて皆で聖歌を歌い、司祭と一緒に祈りの言葉を唱え、故人を偲ぶ話に耳を傾けると、参列者全員が家族であるような一体感を覚えるのである。
キリスト教での死は神のみもとへ召される祝福であり、「忌み」や「穢れ(けがれ)」ではない。肉体を離れた魂は父の家で永遠の命を得て、先に旅立った懐かしい人たちに迎えられる喜びが待っている。後に残す家族や友人たちとは一時的に別れても、またいつか出会える日が訪れるのだ。だから葬儀では「また会う日まで また会う日まで 神のまもり なが身を離れざれ」という歌詞の聖歌497番『神ともにいまして』がよく歌われる。
そして昨晩は献花の前に、故人が生前に声を残していた『千の風になって』が流された。亡くなる3日前に偶然ご家族が音源を見つけたという。なんて朗々とした美しい歌声だったんだと感動して、「私のお墓の前で 泣かないでください」のフレーズに涙がこぼれ落ちる。「そこに私はいません 死んでなんかいません」にうなずきながら、またお会いできる時を楽しみに待っていようと教会の天井を見上げた。私自身がこの世を去る順番が回ってくるのはいつか、それこそ神のみぞ知るだが、頼もしい先輩が敷いてくれた道は怖い道ではないことが分かる。こんな安心感を与えて戴いた葬儀は初めてである。
教会の外に出ると参列者は誰も帰らずに、幾つもの輪が出来ていた。「久しぶりだね~」と再会を喜んで抱き合い、泣き顔が笑顔に変わっていく輪、輪、輪。私も約20年ぶりの仲間たちに出会い、ワインを飲もうよと四ツ谷のレストランへ。故人が引き合わせてくれた奇跡的な計らいに感謝しながら、思い出話とこれからの計画と語り尽きない音楽談義の夜を過ごした。
そして帰りの横須賀線でもう一度、式次第のページを開いて確認したもの。マザー・テレサが最も愛した祈祷文「平和の祈り(アッシジの聖フランチェスコの祈り」)である。人間にとって本当に重要なものは「愛と平和」だけであり、それ以外のものは全て不要であるとと説いた聖フランチェスコの祈りは、まるで吟遊詩人の歌のように美しい。いつか私もこんな優しい歌詞が書けますようにと、式次第は永久保存版の宝物になった。
主よ、私たちを平和のためにお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
争いのあるところにゆるしを、
分裂には一致を、
疑いには信仰を、
誤りには真理を、
絶望には希望を、
悲しみには喜びを、
暗闇には光をもたらすことができますように。
主よ、慰められることよりも慰めることを、
理解されることよりも理解することを、
愛されることよりも愛することを求めますように。
わたしたちは与えることによって多くを受け、
ゆるすことによってゆるされ、
ひとのために命をささげることによって、
永遠の命をいただくのですから。
コメント
Lacrimosa *Amen*
Requiem 叙情の音
叙景の魂 咄嗟の涙
畏