期待を背負って走るマラソン選手に声援が飛ぶ。応援の声は「頑張って~!」。声掛けされた側は聞こえているのかいないのか、いや、耳に神経を集中している場合ではないはずだ。苦しくて苦しくて苦しくて、これ以上頑張れるかは、他の誰よりも密接に向き合ってた自分にしか分からない。
どうして、いつから、「頑張って!」が始まったんだんだろう。マラソンにせよ仕事にせよ、プロフェショナルのギリギリで戦ってきた努力があるのに、事情を知らないギャラリーからの励ましは優しくて傲慢だ。これ以上どう頑張ればいいんだよ・・。心理学の世界で「頑張って」はお気軽すぎて、うつ病患者に対してはNGワードである。
本人が地道に頑張るしかないことに、どこまで他人がアドバイスするの?
数年前の夏、仕事で徹夜のあとに仲間たちと富士山に登った。
日本にエアロビクスが入ってきたころから有酸素運動を続けている私には、すいすいと登れる登山道だと思っていた。ところが息が続かず足が吊って、仲間を邪魔するだけの厄介者になったのである。なのに誰も「頑張って」を言わないのは、たぶん私の限界を見て取ったから。「先に行ってください」と手を振り、似たような体力の新しい友人を見つけてゆっくりゆっくりとカタツムリみたいに登った。登頂を果たした時にチームは既に下山した後だったけれど、だからこそ私のプライドは傷つかずに済んだ。心で泣いている自分と戦って、目的を果たしたことは我が人生の表彰状になったと思う。
人間は一人で生まれて一人で死んでいく。どんなに頑張っても孤独は避けられない。だからこそ付け焼刃の「頑張って」ではなく、黙々と鍛錬している姿を、宇宙みたいに大きなフィールドで見守り合える誰かが欲しい。
このブログをアップした後はプログラミング作業に戻り、たぶん寝ないままに明晩も徹夜が確定。そこに欲しいのは「君なら大丈夫!」だ。豚もおだてりゃ木に登るを促進するのは、そんじょそこらじゃ落ちないことを知っている訓練した豚の「どうよ!」を褒めてくれる、まっとうに観察し続けてくれた目じゃないだろうか。
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