夏の色が去っていく散歩道に、紅紫色した萩の花が咲きこぼれている。そして昨夜は中秋の名月。まだ蒼さが残る空に、山の端から上ってきた月は、神々しいほどに美しい。
この季節になると頭に浮かぶのは、松尾芭蕉の『奥の細道』の句。
「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」
桔梗屋という宿屋での出来事。遊女はフィクションであるらしいが、解説を現代文に訳すと下記のような意味だ。
芭蕉たちは越後の市振という地で、お伊勢参りに向かう遊女2人と同宿になった。となりの部屋から老人の声を交えて、悲運な身の上話が聞こえてくる。2人をここまで送ってきた老人は、夜が明ければ故郷への手紙を持って引き返すらしい。
僧衣を着た芭蕉たちが翌朝旅立とうとすると、2人が涙ながらに旅の道連れを頼んできた。行方知れない旅があまりに心細いので、せめて見え隠れにも皆さんの後をつけさせてくれないかと。慈悲を求める心が不憫ではあるが、修行の旅である芭蕉たちは願いを断る。
「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」(人の流れにまかせて行けば、必ず神仏のご加護があるでしょう)
言い捨てて出発したものの、哀れさはしばらく尾を引いた。
夜が更けて、寝息だけが聞こえる木賃宿。そこには萩の花と月。暗喩として「萩」は遊女、「月」は僧衣を着た芭蕉を指すという説もあるし、芭蕉には珍しい妖艶な句だという説もあるが、私は違う解釈をする。
地上には可憐で清らかな萩の花と、空には誰もを平等に照らす銀色の月。どちらも神の仮の姿だろう。たとえ身が汚れた遊女であろうと、慈悲を乞う心があれば、神は目に映る優しい姿となって浄化してくれる。聖書でいえば、マグダラのマリアを彷彿とさせる句のように思えるのだ。
中秋の名月から一夜明けて、今日は雨。雨脚が激しさを増すほどに、心に淀んでいたものが流されていく彼岸の中日である。
コメント
一人の人間の中に萩の心と月の心が同時に存在するという解釈はいかがでしょうか?
的は逗子の素浪人様
お察しの通り萩も月も、同じ人間の中に存在するものです。美しいものを人は幾つも持っています。それに気付かないまま、花は咲かずに、月は雲に隠れて一生が終わる人も・・。
喜納昌吉さんの『花』(川は流れてどこどこ行くの)は、人間の理を知り、気付きを促す歌だと思いますね。
月が罪を浄化するは初めて聞きますが、不思議なパワーがあるのは事実ですよね。
以前に勤めていた会社の方が「満月の夜に願い事を書いた紙を持ち強く願うと夢が叶うよ」と言ってました。
実は私も実践しました。
夢と言う大きなものではありませんが願い通り、半年後ぐらいに面接後即時に再就職が決まり、多少の自信もついたと思います。
大げさですが「私には失敗がない」と自惚れた程です(笑)
大事なのは失敗を失敗だと思わない事です。
出来るまでチャレンジすれば必ず成功します。
marie様
とてもいいコメントをいただきました。
> 大事なのは失敗を失敗だと思わない事です。
> 出来るまでチャレンジすれば必ず成功します。
ゴルフの下手さ加減には我ながら呆れかえっていますが、人前で失敗することで肝が大きくなるし、何度もトライするうちに自分の欠点が見えてきました。克服して完璧にマスターすれば、年内には100を切れるぞー!って、思い込んでおります。
これはゴルフに限らず、仕事でも恋愛でも同じこと。冷静に自分を見つめる目、そして励ます心の声。「失敗するかも」よりは「絶対大丈夫」をリフレインすることが成功への近道なのだと思います。
ゆり子さん。
こんにちは。セリカです。
そのような松尾芭蕉の句は、知りませんでした。
私もゆり子さんのどちらも神の仮の姿という解釈が好きです。
彼岸の日の大雨は、カタルシスを感じます。
幅広い知識をお持ちのゆり子さんのブログには
いつも圧倒されています。
いつも素敵な文章で綴られた興味深い記事の数々。
これからも楽しみにしていますからー!
また、遊びにきまーす♪
セリカ様
宝物のように、私が長年愛用している書物といえば『歳時記』で、新年・春・夏・秋・冬の5巻は、その季節ごとの図鑑であり辞書です。この芭蕉の句も、秋の巻から見つけたものです。萩の花の写真を撮ったとき、ブログに載せることができる嬉しさに、ちょっと心が躍りました。
こうしてコメントを下さる方がいらっしゃるおかげで、大切にしてきた語句たちも光を得ることができます。ありがとうございます。