終戦記念日と高齢者たち

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蝉しぐれにミンミンゼミの鳴き声が増えてきた。この時期になるとテレビでは太平洋戦争にまつわる番組が増え、終戦記念日が近いことに気付く。

日曜のブランチ。素麺をすすりながらテレビをつけると、NHKで戦争証言アーカイブスの映像が流れていた。険しい表情の老人がミャンマーでの体験を語っている。それは眼鏡を失くした仲間の兵士が自決した話。自分は戦いの役に立たないと絶望した友に対し、「大丈夫だ。俺の服に捕まって歩け」と励ましたところ、「ちょっと用を足してくる」と草むらに隠れ、その直後に手りゅう弾で自らの命を断ったという。「俺たちはみんな盾(たて)だったんですよ」と当時を振り返るその老人は、悲惨な記憶を家族には殆ど語らないまま、今はもう亡くなられている。

蝉の声、素麺、夏休み、終戦記念日・・、いろんなものがオーバーラップして思い出すのは私が高校生だった頃の食卓。当時は鎌倉の七里ヶ浜にあった祖父母の家で暮らしており、食事時になると必ずと言っていいほど祖父は戦争体験談を喋り出す。
「わしの身体には敵に撃たれた弾が何発も残っているんじゃ」と言う武勇伝。
また大袈裟な自慢話が始まったと祖母はさっさと食器を片づけ始め、週に一度だけ食事を共にする父は爪楊枝をくわえてテレビの前に移動する。私は「ごめん、勉強があるから」と二階に逃げて、その後はどうなったやら。酒の飲めない母が祖父にお酌をしながら、さっさと徳利が空になるのを待っていたのだろうと思う。

祖父は本当にホラ吹きだったのか、鎌倉霊園の墓石に向かって訊ねても真相は分からない。そして今になって心残りなのは辛抱強く話を聴いてあげられなかったことだ。身体に弾が残っているかどうかじゃなく、仲間を失いながら生き残った兵士がどれほど心に傷を負っているかを察してあげられなかったことだ。

戦後68年の日本。過酷な体験を証言できる主人公は年々減っていき、やがて確実に誰もいなくなる。聴き取りにくくても、同じ内容の繰り返しであっても、彼らの肉声をひたすら傾聴するのが私たちの世代にできること。100年後も1,000年後も戦争とは無縁な国家であるために、平和のバトンを受け取らなくてはならない。

コメント

  1. こまちゃん より:

    中学の時に亡くなった祖父は、シベリア抑留経験者でした。
    あまり真剣に話を聞かなかったのを今更ながら後悔してます。
    聞いてあげれば良かった、事実を知りたかった。。。

  2. yuris22 より:

    こまちゃん

    今夜は「テレビ未来遺産」という番組で、沖縄戦当時の知事であった島田叡氏の報道ドラマ「生きろ」を見ました。県民たちの命を守ったあと消息を絶ち、68年経った今でも多くの方々が行方を捜していることに驚きました。戦争には語っても語りつくせない、どれだけのストーリーが埋もれているのでしょう。もっともっと真実を知りたいです。

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