金と執着から離れる仏教

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父が脳卒中で倒れてから6年半。直系の長女という立場で、鎌倉霊園にある墓所を管理している。墓誌に名が刻まれているのは祖父母だけだが、やがて父も加わり、この私も加わるのかと思うと、しがらみが重くなる。その時に花を供えてくれる子孫がいるかどうか、死んだ後では分からない。

NHKのクローズアップ現代「岐路に立つお寺~問われる宗教の役割~」で、墓をお寺の墓地から、葬儀会社が造ったビルの納骨堂へ移す人が増えていると聞いた。原因は田舎から都会への転居。檀家として高い維持費や法要料を払うことへの不当感。今や経営難でお寺が潰れるケースも多いという。

日本全国のお寺の数は76,000。コンビニの数の2倍だ。そこまで必要だったお寺から人が離れていく最大要因は、期待感が薄れたことにある。仏教に良いイメージを持っているかとのアンケートにYESと答えた人は90%なのに対し、お寺に対しては25%、僧侶に対しては10%。生臭坊主のぼったくり的イメージが、お寺への不信感を募らせているのだ。

私の祖父が亡くなった時、父は鎌倉市腰越の満福寺で通夜と葬儀を営んだ。源義経ゆかりの古刹というだけあり、お寺にはマンション一軒分の代金を支払ったらしい。戒名だけでも高級車が買える値段だったというから、片手ぐらい(50万円ではない)払ったのだろう。

Wikipediaの「戒名」によると、「院号」は生前に寺院や宗派に対して多大な貢献をした者、あるいは社会的に高い貢献をした者に贈られる号というが、ごく平凡に生まれ死んだ祖父はどちらでもない。平成3年に墓誌に刻まれた戒名は風雨にさらされて、院号ブランドは影が薄くなった。葬儀会社の「我が社の納骨堂をご利用いただけば、戒名はタダにします」という宣伝文句に契約者が殺到するのも、この経済難の時代には当然かもしれない。

お墓とは骨の保管場所ではなく、逝ってしまった人に話かけることで、自分の心を見つめる場所のように思う。法要に時間と金銭を費やし、故人の生き様を何も知らない僧侶の説法を聞くぐらいなら、骨灰を海に撒いて潮風の声を聞いた方がいい。

空海は「身は華と与に落ちぬれども、心は香と将に飛ぶ」と言った。身体は花のように地に落ちてしまうけれど、心は香りとなって宙に飛んでいくという意味だ。『千の風になって』の歌詞みたいに、「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」なのだ。

歳を取るごとに死は身近になり、仏教に興味が増していく。僧侶はお墓を質草にして寺を守るのではなく、町に出て民の苦しみに耳を傾けた道元や親鸞のように、時代を彷徨う人々の心を救う行動の中に、仏教を見せて欲しいと願っている。

コメント

  1. こまちゃん より:

    神道の様に勧誘が無いのなら、
    もう少し信用もされるかも知れませんね。
    成仏とか解脱をウリにしている人が守銭奴では・・・
    (^^;

    本来の真理と墓等の偶像崇拝は乖離してると思います。

  2. yuris22 より:

    こまちゃん

    借金してビル納骨堂を建てたものの、契約者がなく倒産したお寺の住職がインタビューに応じてました。「皆さんにご迷惑をかけて、昔だったら断頭か島流しです」だなんて、反省のしかたもズレてます。心の委縮した僧侶を立ち直らせるべく、檀家がカウンセリングするのでしょうか。

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