柿の味が分かる年齢になった

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愛媛県に住んでいた幼児のころ、我が家は小さなエデンの園だった。ひとりっ子で遊び相手がいなかったので、家屋の周りをグルグルと走りながら庭の果実をもぎって食べるのが、幼稚園から帰ったあとに日暮れまでの遊びとなっていた。

苦い皮に傷をつけてチューチューすると、酸っぱい果汁が出てくるキンカン。
ブランコに揺られながら小さな赤い実を指でつまんで、大事に一粒一粒食べるザクロ。
物干し竿の先に小さな袋を付けて、手ごたえで取ったイチジクの完熟したツブツブ。
成木に果物が成っている贅沢さを小さな手で独り占めしていたと思う。

そうした庭に生る果物のうち、一つだけ近寄りがたい例外があった。渋柿だ。
たわわに実ったオレンジ色の艶やかな円錐形。見るからに美味しそうな実をこっそり齧ったとたん渋さにペッペして、カラスも突かない理由を体験した。大人たちはこんな不味い果物をどうして植えているのか不思議極まりない。

そんな謎が解けたのは小春日和の昼下がり。祖母が手ぬぐいを頬被りして木に手をのばし、渋柿の実を収穫している。ゴロゴロと洗って乾かして大きなビニール袋に入れると、祖父が焼酎の一升瓶を持ってきた。瓶を逆さにして口にくわえるとブーッ!! 細かい霧を何度も渋柿に吹きかける様子を間近で見ながら、私は焼酎の匂いに酔っ払い、こんな酒臭い柿は食べないぞと心に誓った。

それから間もなく祖父の会社が倒産して一家離散し、果物が実っていた庭は思い出の中に遠ざかる。今ではどんな果物でもフルーツショップで手に入るけれど、絶対に食べずにいた焼酎ブーッの渋柿の味はどうなのか、酒飲みとなった今ではずっと気になったまま。

今夜はスーパーで買った四角い柿を食後に味わって、色の薄さとお行儀の良い味に少々不満。おぼろげにしか浮かばない庭に生っていた渋柿を齧ったとき、口の中でどんな渋さだったのか忘れたしまったのが物足りない。

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私のトレードマークとなった『赤いやねの家』の歌詞。「にわにうめた柿のたね 大きくなったかな」と果物に「柿」を選んだ理由は狭い。メロ先(メロディに詞をはめこむこと)で音符が2つだったので、使える名詞が2文字に限定されたからだ。柿以外に梨・桃・梅など2文字の果物は他にあるけれど、子どもが埋めそうなサイズの種だったらやっぱり柿だろう。きっと大きくなりそうとワクワクするような形でもある。

今夜食べた柿は品種改良されたのか、あのツルツルとした種がなかった。
「お酒を飲みすぎた時は柿を食べると、スーッと酔いが醒めるのよ」。
祖母が生きていたころ午前様で帰った私に、剥いて出してくれたオレンジの果実。
素朴な味が美味しいなあと思ったのは、柿にそぐえる年齢になっていたせいだろうか。

酸っぱくない果物は大人の味。既にお墓に入っている祖父の焼酎ブーッも悪くないなあと思いつつ、深まる秋のオレンジ色に涙する年齢になった。枯れていくもの、帰ってこないもの、その色は鮮やかであるほど中身は儚い。

コメント

  1. 的は逗子の素浪人 より:

    歳を重ねるからこそ分かる味がありますね。
    特に思い出と一緒の味には、涙が出ます。
    でもここまで来た感謝と共に味わいます。

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