甘さを削ぎ落とした老木

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小坪の小さな小さなお寺の横に、枝も葉もない老木が立っている。その木は立っているというよりも、これ以上傾かないように支え木で固定され、斜めになった状態で耐えている。いったい何百年の風雨と照りつける太陽にさらされてきたのか、まるで痩せこけて皺だらけになった、老いた漁師のようだ。

老木1
老木2

森信三の『修身教授録』の中に、「風雪の鍛錬」「生活の鍛錬」という言葉が出てくる。
老木の趣とは、ただ木が大きいとか古いだけではない。風雪によって鍛えられて、その生なところがことごとく削り取られて、残すことがなくなったものである。永年の風雪の鍛錬によって、そこには一種精神的ともいうべき気品が現れてくるのだという。

それは人間においても同じこと。現実生活で経験していく苦悩によって鍛えられて、生々しい部分が削り取られていく。つまり生活の鍛錬が、その人から全ての甘さを削ぎ落とし、優れた人格が形成されるのだという。

人間は生まれたときから甘えて生きている。
母に甘え、他人に甘え、社会に甘え、地球に甘え、神に甘える。甘えを自覚しているうちは相手への感謝があるが、限度を超えると依存になり、さらに度を超すと寄生になって人格は存在しない。

ときに甘えと奢りは同居する。
相手の甘えを受け入れること・奉仕することを、自分は「~してあげた」と口外した途端、それは無償の行為ではなくなり奢りになる。驕りとは相手に感謝を求める甘えであって、人徳は地に落ちる。

数々の「甘え」が自分に向いた状態を総称して「甘さ」というなら、私はまだまだ人格以下の鍛錬足らずであり、無駄な枝葉が伸び放題の我が身を持て余す日々である。

考えがまとまらないところに、死の試練を乗り越え、充分に老木の域に達した友人から電話がきた。デビ夫人の友人がフランスから遊びに来たので、ランチに付き合って欲しいとのこと。年齢から言ってその方も老木の部類に入りそうだ。先人のオーラを見せていただきに、今から出かけてきまーす。

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